更新履歴

2021/1/19 メギド72+4 今まで同人誌として出したものを追加
2019/5/28 メギド72+1
2019/1/31 メギド72に1つ追加
2018/8/18 開設

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注意
2019年2月に出した本のweb公開版ですので現在の設定とは多少違うかもしれません。
暴力表現があります。
謎時空です。雰囲気で読んでください。


クソったれ。しくじった。
金髪の青年はそう心の中で毒づく。
ろくにモノも知らない愚かで醜悪で鈍間なヴィータから指輪をちょろまかし、
捕まっているメギドがいれば助けてやり、売った恩をダシにして自分の野望のための手駒にする。
彼にとってはあくびがでるくらい簡単で、いつもどおりの仕事のはずだった。
カモの屋敷に忍び込み、そこのメギドに接触するまでは順調だった。
まさか相手方に存在がすでに知られていて、囚えられている追放メギドが
自らすすんで釣り餌になり嵌めてくるなど彼は夢にも思っていなかったのだ。
その女は、いかにも自分は指輪によって無理やり服従せられている無害で弱い立場の者ですといった面で彼に助けを求めるフリをしてきた。
結果、彼もメギドであること、不死者と呼ばれる存在であることなどを馬鹿みたいにべらべらと喋り、
むざむざ敵方に情報を明け渡す事になってしまった。
そしてトドメに、逆らえばこいつを殺す、と脅されてしまってはフォトン袋に渋々従うよりほかに選択肢はなかった。
助けに来たのに、対象が殺されてしまっては本末転倒だ。
かくして、彼は現在薄暗い地下室の檻に繋がれている。
彼をここに閉じ込めたあのヴィータは医者らしく、実験用の動物を飼うために結構な規模の設備を有しているようだった。
彼が入れられたところは――人体実験をしているのでも無ければ――大型動物用のものと思しきやや広めの檻だった。
何にせよ、こんな場所に大人しく捕まっているつもりは青年には毛頭なかった。
自らを騙した女に腹が立たないわけではなかったが、そんなことは大事の前の小事。
頃合いをみてあのメギドを連れて指輪と一緒にトンズラしてやる。
最悪の場合、ヴィータは殺すことになるだろう。
さて、どうやって脱出しようかと早速逃走の算段をつけはじめる。
キィキィ、ギャアギャアと鳴き喚いている他の実験用飼育動物たちの声を意識から締め出し、
これからのことについて彼が思案を巡らせていると、ふいに薄暗い地下に光がさす。
どうやら上へと続く扉が開かれたらしい。
その光は暗闇に慣れていた目には明るすぎ、反射的に腕で光を避けようとするが、
その行為は鉄の鎖が鳴る重苦しい音に遮られ、彼に自分には今手枷がはめられており自由が効かないことを思い知らせるだけであった。
自らの身のままならなさに、彼の口から思わず舌打ちが漏れる。
青年が檻の中でもがいている間に、石造りの冷たい床をわざとらしく踏み鳴らして、
この屋敷の主である男が彼の囚われている檻の方に向かってくる。
そして、外と内を隔てる鉄格子の前で立ち止まった。
「いいざまだな。このクソメギド風情がよ。
お前らメギドは大人しく人間様にこき使われてりゃいいんだよ。おら、さっさと召喚されろ」
「はっ。誰がオマエみてぇなクソヴィータに召喚されるかっつの」
そう言い返すと男はその態度が癪に触ったのか、檻の扉を乱暴に開き、そこに閉じ込められている青年に歩み寄る。
そして、彼の顎を荒々しく掴み、互いの息遣いが感じられる程の距離まで顔を近づけた。
「そーかよ。ならテメェから、お願いします。召喚してください。って言うようになるまでたっぷり可愛がってやる。
意思を折っちまえば逆らいようがなくなるんだからな。もう検証済みなんだぜ」
誰で検証したのかは、考えるまでもなく明白だった。
その答えに到達した彼の顔が嫌悪に歪む。
その表情を見て満足したのか、一瞬男の腕から少し力が抜ける。
その僅かな隙を逃さず腕を振り払い、拘束された状態で出せる限りの力を持って、腕に牙を突き立てる。
「いでぇ!?クソッ!こいつ噛みやがったッ!」
苦い鉄の味が舌の上に広がるとほぼ同時に、男の拳が激昂とともに青年の腹に打ち込まれる。
鎖が邪魔し受け身を取ることもかなわず、彼は背中から壁に叩きつけられ、衝撃が骨を通じて全身に響き渡る。
「ぐっ……」
たまらずうめき声をあげながら、重力のなすがままどさりと床に崩れ落ちる。
ゲホゲホと口腔から血液が吐き出され、温かい血が冷たい石の床に染み込んでいく。
咳き込んでいると、男に胸ぐらを乱暴に掴まれ青年の身体が地面から浮き上がる。
「クソが。どっちの立場が上かこれでわかったろ?大人しくしときゃ殺しはしねえ……よっ!」
「……ッ」
トドメだといわんばかりにもう一発。ドスッと鈍い音が腹部のあたりから響く。
その衝撃で彼の胃から食道へ、そして口内へとなにかが悪寒と共にせり上がってくる。
「うっ……ぐっ……ええ……っ」
朝方詰め込んだトーストの成れの果ての物体が、びちゃびちゃと音をたてて床にぶちまけられた。
不死者の無様な姿をみて男は満足したのかそれ以上暴行を加えることはせず、
明日から覚悟しておけよ、と言い捨てて地下牢から去っていった。
扉が閉じられ、再び地下は薄闇と静寂を取り戻す。
床に突っ伏し、しばらくはぜえぜえと肩で息をしていたが、しばらくすると普段の落ち着きと思考力を取り戻す。
彼は弱ってはいたが、自らの目的を遂げるという頑強な意志だけは失っていなかった。
なにか使えそうなものはないかと、暗い檻のなかを自由の効かない手でどうにか探ってゆく。
床を這いずり回るようにして探索を済ませた結果、牢はほとんど手入れがなされていないらしく、
石畳はところどころ剥がれ、石片があたりに散らばるままになっていることがわかった。
彼にはめられた枷も同じく、かろうじて役目を果たしてはいるが、頑丈とは程遠い状態であり、
なにか強い衝撃を受ければそのまま砕けそうであった。
(これは、使えるかもしんねえな……)
手頃な大きさの石片をいくつかかき集めて、形状、大きさなどを吟味する。
一通り眺め、考え込み、なにか閃いたのか満足すると、まずは当面の疲労を回復するべく、処理することのかなわなかった自らの吐瀉物を避けて獣のように床に丸くなる。
そうしてそのまま訪れた睡魔に身を預け、意識を暗闇の中へと沈めていった。

調停者は、硬い床の上で目を覚ます。
今が何時なのか、朝か夜かの判別もつかなかったが、例の男が青年の拘束されている檻にやってきたことで、
少なくとも日はまたいだものだと予測することができた。
「おら起きろクソメギド。いつまで寝てるんだ」
その言葉とほぼ同時に、青年のみぞおちに男の鋭い革靴の先が突き刺さった。
「……ッ!!かはッ……」
胃の中身が逆流してくるが、拘束されてから何も口にしておらず、
昨日胃袋の中身を吐き出し尽くした彼の腹のなかにもう出すべきものが残っている道理があるはずもなく、
ただ血液混じりの胃液だけが虚しく床に飛び散るのみだった。
「チッ……きったねえな。誰が掃除すっと思ってんだクソが。まあいい。てめえに飯をもってきてやったぞ。
いろいろ試す前に餓死でもされちまったら困るからなァ。ありがたく食えよ」
そういうと、男が後ろに控えていたメギドの女におい、と合図する。
すると、彼女によって食事を乗せた盆が牢の中へと運び込まれ床に置かれる。
ありがとな、と声をかけるが女は一瞥を彼にくれただけで返事はしなかった。
別に期待したわけではなかったが、心中ではぁ、とため息をつく。
気を取り直し、出された食事に向き直る。
大皿によそわれた、まだ湯気の立つ具沢山のシチューが彼に出された朝食だった。
「おいおいおっさん。頼むからさ、飯のときくらいこれ、外してくれよ」
彼はそういうと、手枷のはまっている自らの腕を左右に振って、鎖をじゃらじゃらと鳴らす。
「あ?何いってんだ外すわけねえだろ」
「つってもこれじゃ食おうにも食えないぜ」
「つけたまま食うに決まってんだろうが。食い方がわかんねえなら教えてやるよッ!」
次の瞬間、青年は自らの顔面が熱いシチュー皿の中で焼かれているのを感じていた。
「おらっ!こうやって食うんだよ!!わかったか!?」
とっさのことで反応ができず、普段のように呼吸しようとしてしまう。
そうして吸い込んだ熱い液体が彼の粘膜を焼き尽くす。
反射的に液体を吐き出そうともがくが、男の足が彼の頭を踏みつけ、頭を上げることができない状況ではただ皿の中の、ミルクで出来た白い液体がごぼごぼと音をたてるだけだった。
……フォトンの摂取と少量の物理的な食事で事足りるメギドであったころならともかく、今の彼の身体は肉体の維持に定期的に外部からの多量な物理的栄養補給を必要とする脆弱なヴィータである。
いくら魂(ソフトウェア)が人智の域を超えた生物であっても、この世界――ヴァイガルド――で稼働するための容れ物(ハードウェア)が壊れてしまっては元も子もない。
そのことはとても良くわかっていた。
だから、どんなに現在の己がいかに惨めなものか理解していても、
畜生のように床に這いつくばって供された皿を舐めるよりほかになかった。
もがくのをやめ、大人しく食べ始めたと見えると、男の拘束が緩む。
多少自由のきくようになった首を動かして、一口大に切られた具材をくわえ込み、咀嚼し、嚥下する。
自らの金の髪が浮いたシチューを啜り、雫の一滴すら残すまいと舌を伸ばし舐め取る。
他の檻に入っている動物たちが、およそ言葉に書き起こすことの出来ないような混沌とした音を発し騒いでいる。
青年にはそのノイズが、いくらヴィータを見下していようが、お前も所詮その卑しい下等生物と変わらないのだ、と彼のことを嗤っているように聞こえた。
唇を噛む思いであったが、反逆の機会が訪れるまで、耐えるのが得策であり、またそうするしかなかった。
「おとなしくなってきたな。だが、念には念を入れておくとするか」
そういうと男は下卑た笑みを浮かべながら、おい。と女に合図をする。
(まだ何かする気かよ……相当しつこいおっさんだな)
しばらくして彼女が運んできたバットの上には、金属でできていると思わしき器具類が厳しく並べたてられていた。
それらの中には、特別な知識がなくともある程度見た目だけで何であるか判断できるものがいくつか存在していた。
(あれは……鉗子か?それと開口具か……。他のやつはわかんねえな。クソ、何するつもりにしろロクなことじゃねえ……)
「またこないだみてえに噛まれたらたまらねえからな。こいつで今からお前の歯を抜いてやる」
その言葉を聞いて、青年はやや引きつった顔でもう一度バットの上を見やる。
なんどみても、そこには手術に際して使用するような麻酔薬や、それに似たような効能の薬草類は見受けられなかった。
「あー……おっさんさあ、忘れもんしてねえか?ほら、麻酔とか……」
その言葉を聞いた途端、男は大声で笑いだした。
「忘れてねえかだと?あんま笑わせんな。これでいいんだよ。痛くなきゃ意味がねえだろ。
それによぉお前、不死者なんだろ?本当に“不死”かどうか実験してみんのも悪くねえと思ってな」
それに、近頃はバケモノ共が暴れ始めていてそういうもんは貴重になってきてんだよ。有る分は王都に優先してまわされちまうしな、と誰にあてるでもなくぼやく。
当の青年は、まさかメギドラルの推し進めるハルマゲドン計画の影響がこのような形で自身に降り掛かってくるとは全く予想だにしておらず、一人苦虫を噛み潰したような顔をつくっていた。
どちらにせよ、彼には大人しくこの状況を受け入れる以外選択肢が存在しない。
下手に抵抗して、無駄に体力を消耗するような真似は極力したくなかった。
後ろ手に縛られたまま、口に開口具がカチャカチャと金属音をたてて装着されていくのを黙って眺める。
作業がおわると、ゴム手袋をした男が何かしらの器具を握って青年に向かって近づいてきた。
「さあ、一本目いくぞ。まずは麻酔……はねえから次、歯の脱臼だ」
そういうと男は青年の口内に、名前もわからない無骨な金属製の器具を無遠慮に突っ込む。
それは、標的の歯肉と歯の間に差し込まれると、ぐるりと一周するように動かされた。
「まずはな……こうやって靭帯を切って、それから脱臼させるんだ」
聞いてもいないのに――聞こうとしても今の彼には呻き声をあげるのが精一杯であったが――男はそう説明する。
どんなに口内の異物感や痛みなどを意識から締め出そうとしても、男から発せられる音が言葉として意味を成し鼓膜を震わすと、駆逐しようとしたそれらの感触が神経を伝って調停者の脳髄に侵入していく。
――脳、ヴィータの頭部の殆どを占める器官、とは不思議なもので、例えば事故で手足が切断されてしまっても、そのことを目視するなどして認識しなければ、本来感じて然るべき痛みなどを感じないらしい。
ただ、第三者が「切断されている」という事実を本人に伝え、そして認識してしまうと、たちまちに痛みが全身を駆け巡り、中にはショック症状を起こす者もいると聞く。
こいつはこの仕組を知っていて、わざわざ事の子細を説明しているのだろう。
オレの意識を逃さないように。全く悪趣味極まりない――
声をあげたり、泣き叫んだりすることは男の加虐欲をさらに煽るだけだろうと青年にはわかりきっていたので、
脳内思考の世界へと逃避することによってすこしでも意識を現実から離脱させようと試みる。
しかしそのわずかばかりの抵抗も、顎骨を伝わって頭蓋に響くみしみし、続いてばきりという骨の外れる音の前に虚しく砕け散ってしまった。
そして、
呼吸が止まる。
視界がホワイトアウトする。
「――ッ!!」
声にならない声で叫ぶ。
世界が急速に色を取り戻す。
彼を襲ったのは“痛み”と単純に表現するには生ぬるい神経への刺激であった。
カチャリ、と開口具の拘束が外れる音がどこか遠くから響いてくるのが聞こえた。
「いてえか?いてえだろうなあ。かわいそうになあ。だがお前が悪いんだぞ。大
人しく最初から言うこと聞いときゃこんなことわざわざすることにもなんなかったろうによぉ」
口ではかわいそうなどと宣っているが、男の口元には下卑た笑みが浮かんでおり、未だ激痛の波の中もがいている青年を憐れむ気持ちなど微塵も存在していないということは明白であった。
永遠とも思える長い時間のあと、ようやく痛みに慣れてくる。
雫が一筋、頬から顎をつたって石造りの床に小さな染みをつくる。
それで初めて青年は己がじっとりと、服が体に張り付くほどに、痛みにより喚起された本能的な死の恐怖による肉体の生理的反応によって、脂汗をかいていることに気がついた。
もし彼がヴィータとほとんど変わらない追放メギドであったならば、いっそ殺してくれと無様に懇願するか、一も二もなく服従することを選んでいただろう。
しかし彼は――バラムは――そうしなかった。
劣悪な環境下で弱っていても、気の遠くなるような激痛に苛まれていても、自らを拘束している男に対する反逆の意志は決して揺らぐことがなかった。
それは、今はもうその地位を失って久しいとはいえ、かつてはかのマグナ・レギオに議席を保有していた「王」たる者の意地(プライド)か。
その本心は彼以外知る由もないが、その態度が相手の余裕を大きく崩したことは明白であった。
「クソッ!!どうしてまだそんな目しやがるんだよッッ!訳わかんねえ!クソッ!もういいッ!てめえはここで死ねッ!」
ヴィータ基準で、耐えられないほどの苦痛を与えればすぐに屈服するとたかをくくっていたのだろう。
怒り、自らの違う上位者に対する妬み、僻み、焦りその他エトセトラの感情のこもった怒号と蹴りが調停者の内臓を抉る。
何度も、何度も、執拗に。
衝撃のたび、床に血溜まりが増える。おそらくもう内臓も含め損傷していない部位のほうが少ないだろう。
それでもまだ、それらは治療可能な範囲の負傷である。まだ、もう少し、耐えることができると本能的に感じる。
彼はメギドで、かつその中でも特別ヴィータ離れした力を持つ不死者であるから、身体への影響はその程度で済んでいるといっても良かった。
というよりはそのせいで、すでに常人であれば虫の息になっていてもおかしくない、むしろ死んだほうがいくらかマシという程の暴力をその身に受けて、息絶えることもできないと表現したほうが正しいかも知れない。
すべての記憶を引き継いだまま異世界(ヴァイガルド)に下等生物(ヴィータ)の子として生を受け、意識は本来肉で構成された身体など必要としない純粋なエネルギー、精神或いは魂で構成されている上位種族(メギド)のまま、肉体という牢獄に無理やり縛り付けられる。
――ヴィータの肉体というものはインストールされた魂の質に引きずられるらしい。
人並みはずれた耐久力に加えて、彼がすでに気の遠くなるような永い時を生きているのもその影響の一つであった。
彼は他と比べて寿命が極端に長く、老化が極めて遅い。
本質は程遠いが、数多の権力者たちが、そうでなくとも人間であるならば一度は、手にしたいと願うだろう不老不死――それに近い特質を彼は有していた。
しかし、この特質はもはや呪いに近いと言ってもいい。
同じ追放メギドに運良く出会えたとしても、彼らは殆どの場合、ヴィータと同程度の寿命しか持たない。
多くの者が檻に囚われたまま、蝶になれない蛹のように殻にくたいの中遥か大空かこを夢見たまま、死んでゆく。
中には、自身がかつてメギドであったとついぞ知ることなく、ただのヴィータとして一生を終える者もいる。
だから、どんなにお互い心を通わせたとしても、それは須臾の間のみ。
やがては時に流され朽ち果て、彼だけが一人、このヴァイガルドという広大な牢獄に肉体という枷を嵌められたまま、取り残される。
それに比べれば、今現在彼が受けている仕打ちなど、取るに足らない。
また、望みは完全に絶たれたというわけではない。
少なくとももうひとり自分と同じような、ヴィータを遥かに超えた時を生きるメギドを彼は知っている。
祖に連なる七十二柱の悪魔(メギド)、その三十二にして元・大罪同盟(デッドリーシンズアライアンス)が一人、アスモデウス。
彼にとっては脳裏に想起するのも忌々しい名前だが、同時に長命のメギドが他にも存在するという僅かな希望を提示してくれた存在でもあった。
それはいつか、肩を並べて対等に笑い合えるような――限りなく幻想、叶わぬ願いに近い――そんな存在と出会えるという希望につながっている。
現在の苦しみから解放されたいという死への欲動からの甘美な誘惑に身を委ねてしまえば楽になれるのだろう。
しかしそれをも上回る未来への希望、意志、それらによって喚起される生への欲動。
少しばかりではあるが、確固としてそこに在る可能性。
だから、こんなくだらない場所で、死ぬわけにはいかなかった。
「どうして死なねえんだよッ!この化物ッ!」
怒声とともに、ひときわ力の入った蹴りが繰り出されるが、うまく身を躱し自らを縛る手枷に衝撃を導く。
その衝撃が決め手となり調停者を縛る鎖が、枷が、砕け散り二度と本来の役割を果たすことはなくなる。
もともとあまり手入れがされておらず老朽化が進んでいたそれは、度重なる力を受け止めたことにより限界を迎えていた。
不死者の両腕が自由になる。こうなってしまえばもう、負傷しているとはいえ相手との力の差は歴然としていた。
肉体は精神たましいの影響を受ける。
ではその逆はないとどうして言い切ることができるだろうか。
多かれ少なかれ、ヴィータの肉体を使用している以上、それを支配し構成する遺伝子というプログラムの要求の影響を受けるはずである。
飢えを満たしたい、繁殖したい、生き延びたい――すなわち生存と自己の保存への抗いがたい衝動(エス)。
自らの生命を脅かす存在が目の前にいる場合、その脅威を取り除くことが本能からの至上命令として意識に浮上する。
ちょうど、今がそうであるように。
鎖がはずれ自由になると、一閃。刃が男の喉を切り裂く。
虚空に赤い線を描き出したそれは、手に隠して持って置けるほどの大きさの石製ナイフだった。
この牢に入れられた時に、剥がれた石畳の欠片を密かに研いで作成したものだ。
なにが起こったか理解ができない、といった顔の男が何か言いかけたようであったが、それは言葉にならず、ただ溢れ出る血をがぼがぼと泡立たせるだけだった。
愚かだな、と床に転がる肉塊と己の手の中にある小さな刃を眺めながら調停者は思う。
血溜まりの中から当初の目的であった指輪――どうやら粗悪品であったらしいそれは今までのゴタゴタで壊れ使い物にならなくなっていた――を拾い上げる。
これを手に入れ、自らの血統の能力について知り、下級メギドとはいえ人の理を外れた力を得た男はさぞかし己の全能感に恍惚としたことだろう。
しかし身に余る力というものは時に人を盲目にするものだ。
それを理解しないまま自らが手に入れた力に自惚れ、酔い、闇雲に振るえば、待ち受けているのは破滅である。
指輪の力を過信し相手と己の力量差を見誤ったこの男のように。
「オレをメギド風情と侮ったのが運の尽きだったな、オッサン」
彼の言葉に返事するものはなく、ただ音だけが虚しく冷たい部屋に響いた。
全身がひどく痛むが、じきに元通りになるだろう。もはや物言わぬ肉塊となった男の懐を漁り、この牢獄全体の鍵を見つけ出す。
そうしなければならない、という義務感や使命感からではなくただ気まぐれに、実験用の動物たちが囚われている他の檻を開いていく。
自由になった獣たちから順に、キィキィとわめきながら一目散に外へ向かって駆け出していった。
そうして、最後の一匹が外へと向かう背中を見届けると、続いて自分も続く階段を登り、地上へと脱出する。
地上階の広間へ出ると、そこには最初に彼を嵌めたメギドの女が凄まじい形相で彼のことを見つめていた。
「おいおいカノジョ、なんて顔してんだよ。もうアンタを無理やりこき使っていたやつは死んだ。自由なんだぜ?」
はっ、と鼻で笑うような返事のあと彼女は続けた。
「自由!自由ですって!あなたはその意味を履き違えているわ!私みたいな下級追放メギドがどんな目にあっているか知っている?ヴィータ共に迫害されて、殺されるよりひどい目に遭うの。
ほとんどがそう。そして、そうならないように逃げ続けている。……その不自由さがわかる?きっとあなたのようなそのままでも力を使えるようなやつにはわからないでしょうね」
一気に言い切ったその声には、嫌悪、憎悪、恨み……あらゆる負の感情がこもっているかのようだった。
「少なくともここのヴィータに従っている間は、そういう死の恐怖に怯えなくてよかった。男の所有物ってことになっていたから、他の連中は手出しできなかった。
……命令されるのは腹立つし、たまに殴られたりもしたけれど、少なくとも四六時中気を張って移動しなくてもいいし、衣食住にも困ることはなかった。
私に言わせてみれば、指輪に召喚される前よりずっと自由だったわ。それもあなたが全て、台無しにしてしまったけれど」
上位存在への隷属、そしてそれと引き換えの生命の保証。
自らの手足を縛ることによる自由の獲得。
彼女の主張する自由とはつまるところそういうものだった。
「あなた、私みたいなのを助けて回っているのだってね。はっきり言って、メーワク。こんな訳のわからない世界に放り出されて、迫害されて……力のない私達のような弱者にとって自分で生きていくことなんて、苦痛でしか無いの。それでも助けるって言うなら、この苦しみから解放して。……殺してよ」
その魂の底から絞り出されたような嘆きを聞いてもなお、調停者は手を下そうとはしなかった。
そうすれば、指輪も手駒も得られないまま終わってしまうから。
「そんなこと、言うなって。生きてりゃいいことあるさ。オレには考えだってある。カノジョみたいなやつ集めてさ、いつかヴィータに干渉されない追放メギドだけのコミューンを作る。……だからそんときまで、生きていてくれよ」
「いつかっていつよ!もう苦しいのは嫌!殺してッ殺してッ殺してよッ!」
彼はもはや何も言わなかった。
その場に泣き崩れた女をしばし苦々しい顔で見下ろして、やがて背をむけ歩き始める。
自らの成すべきことを、成すために。
(いつだろうな……わかんねえよ。けど、もう後戻りはできねえ。やるしかねえんだ……)
道すがら湧き出たその思考は音にならず、脳内で泡沫となり消えていった。

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